赤ちゃん返りのこと

「赤ちゃん返り」「退行現象

この言葉が表すものを、自分がよく知っているような気がしたのは、ここ数年のことだ。

あれは今から10年ほど前のこと。
私の母が死んだ。
治療法のない病気にかかり、半年で死んだ。
*母の死ぬまでの詳細もいつか書きたいが、ここでは割愛

当時、私は小学2年生だった。
さいわい、祖父母は4人とも健康だったし、親戚や近所の人たちも力を貸してくれた。
だから、いわゆる父子家庭に起きるような困難は何もなかった。
もともと母は私と妹の子育てに専念していて、家事は祖父母が担当していたから、家の中はさほど変わらなかった。

ただ日常から母親が消えただけ。

私にはそう見えた。
ほんとはもっと大変だったと思う。
けど、それが感じられないくらい、至って普通の日々を送ることができた。

物理的困難だけでなく、精神的にも、私はたいしたことないように思えた。
幼いうちに肉親に死なれた子供は、端から見れば結構かわいそうに見えただろう。

でも、周りがあんまり賑やかだから、寂しいと思わなかった。
思わないようにしていたのかもしれない。
こんなに恵まれているのに寂しいなんて贅沢だと、暗示をかけていた気もする。

とにかく、悲しみも寂しさも、涙さえ、実感としてはほとんど私に残さないまま、母の死は通りすぎていった。


それからすぐに、私は小学3年生になった。
家族や親戚や先生は、気を遣いながらも、私が気負うことのないようにしてくれていた。
何不自由なく、なんの不満もない。
ただ、母がこの世にいないだけ。

人の死の意味は充分わかっていた。
曾祖父や曾祖母の葬式に出て死に顔を見たことがあったからかな。
よくグリーフケアで言われるように、自分のせいだと思ったり、帰ってくると思ったりはしなかった。
死への認識は、大学生の今とさほど変わらない程度には正しく身に付いていたと思う。

法事が行われてもお墓参りをしても、私はたぶん泣かなかった。
かわいそうだと思われたくなくて、健気であわれな子だと思われたくなくて、悲しみや寂しさを感じる前に、負の感情に蓋をした。

でも、零れ落ちるはずの何かは、消えたわけではなかった。

ある晩、ふと、眠れなくなった。
心臓がどきどきして、胸騒ぎがして。
隣で寝ている祖母を見たり、妹を見たり、身体を起こして布団の上に座ったりした。
今すぐ、誰かにかまってほしかった。

手を握ってほしい。
頭をよしよししてほしい。
一晩中、楽しい話をしたい。
ぎゅっと抱きしめてほしい。

いっぽうで、
母親の葬式で涙も流さないなんて、なんと非情な子供か。
お前は親不孝ものだ。
と、罵倒してほしくもあった。

とにかく、かまってほしかった。
余計なことで傷つかないように気をつかわれていた反動だろうか。
当時何を求めていたのか、今の私にはわからない。
けれどとにかく、どんなかたちでもいいからかまってほしかった。

その欲求はやがて、心の中にとどめておけなくなった。
私は毎晩、布団の中でぐずるようになった。
これといって悲しいことはない。
ただ胸が異様にどきどきして、それを誰かに察してほしくて、話しかけるでも涙を流すでもなく、ただ声だけの嗚咽を漏らしてぐずった。

はじめの数回は「どうしたの?」「眠れない?」とかまっていた祖母だが、原因もなく返事もしない私にしびれを切らして「静かにしなさい! 眠れないでしょう!」と言った。
でもそのときにはもう、自分では止められなかった。
夜になると胸騒ぎがしてひとりでぐずって、空が明るくなるころ疲れて眠る。
これが、習慣になっていた。

そのうち、ぐずるのはやめた。
相手にされないしあまりうるさいと父や祖父が怒りにくるから。
そういうとき、祖母と手を繋いで寝た。
これは小学5年生くらいまで断続的に続いた。


しかしこのくらいなら、退行現象とは言わない。
ただの反抗期、成長期の一過程だ。

今思い出しても苦笑いするのは、おっぱいを吸いたくなる(そして実行する)あの気持ちだ。
私はもともと、母より祖母と風呂に入ることが多かった。
だから当然、母の死後も祖母と入っていた。

母が死んでどのくらい経っていたか定かでないが、たぶん夜中のぐずりと同時期だと思う。

当時のことはよく覚えていない。
何を思ったか、どう思ったか。
猛烈に、何かに死ぬほど甘えたかっただけだ。
その手っ取り早い手段がそれだった。
そんなに何回も吸ってたわけじゃない。
と思う。
別にそれで安心してたような気もしない。
どこか機械的ありさえした。
しかし確かにその記憶はあるのだ。
でもいたって冷静なものだ。
まるで幽体離脱しているかのように、俯瞰して思い出す。

これはなんなのだろう。
おかしいという自覚はあったが、今まで思い出しもしなかった。

が、グリーフケアを学ぶとき、
「幼児期学童期に身近な人を亡くすと、退行現象が見られることがある」
というのを見て、ふと、思い出した。

私のこの行為が赤ちゃん返りと呼べるのか、その原因がははの死なのか、専門家でないから、わからない。
恐らく、感じないようにしていた反動はもっと色々に現れていたはずだ。

こんな行為を繰り返していたのに病院につれていかれなかったのはありがたいなと思う笑
勉強が手につかなくなることも、非行に走ることもなかったし。
今も普通に大学生やってますし。
ただ、思い出したので書き留めただけでした。