グリーフ興味もったきっかけ(母のこと

この辺のことは高校時代に擬古文でかいたのだが(アホでした)、現代語で書いてみたくなったので書いておく。

母が入院したのは、私が小学2年生の夏だった。

あとで聞いた話によると、とっくに入院していなくてはいけなかったのを、夏祭りでの私のパフォーマンスを見るために1か月ほど先延ばしにしてたらしい。

夏祭りが終わって家に帰ったら、もういなかった。
でそのまま、山をいくつか越えたところにある遠くの病院に入院した。

でもねー、全然寂しくなかったね、ほんとうに。
困ることもなかった。
理由は前かいた通り。
要は人に恵まれていたのだ。
今思えば、とにかく、かわいそうだと思われることだけは避けようってだけだったかも。

夏が過ぎた。

運動会には、医者に無理を言って見に来ていた。
小さな田舎の学校で、車椅子に毛布を羽織った母は、目立った。
でも私はすごく誇らしかった。
あれが最後なんて思わなかったから。
無理をおして、つまり幾らかの犠牲を払っている。
私のために。
それが誇らしかった。


クリスマスになるまで、母は一度も退院してこなかった。
その間、私たちは少しだけ、手紙をやり取りした。

たいしたことはなにもない。
私が、テストで百点をとったとかリレーでアンカーを走ったとか書いておくる。
母が、病院食にクッキーが出て嬉しいとか散歩道の銀杏が臭いとか帰ったらピアノを聴かせてねとか書いて寄越す。
それだけだった。

でも、私はそこに“特別”がほしかった。
二人だけのこと。
ないしょの話。
だからある時、ブラックライトで照らすと浮かび上がる特殊なペンで書いて、ライトと共に送ってみた。
そうしたら、その上から返事が書いてあった。
ライトに気づかなかった母は、私の手紙を読まずに返事だけ寄越したのだ。
なんだかばつが悪くて、手紙はそれでおしまいになった。
そのノートは今もある。
ライトで照らすと、母の黒いペンのしたに、私のかいた白い文字がうっすら見える。
もう二度と読まれることのない、ないしょの話が、まだそこにある。


病気の人というのは怖いものだ。
あの感じは、たぶん同じ経験をした人でないとわからない。
知っている人が病気になってどんどん姿が変わっていくのは、怖い。
母の場合、治療法のない病気だったから、見た目も容態も悪くなるばかりだった。
はじめのうちはお見舞いに行っていた私も、それを見るのがいやになって、学校を言い訳にいくのをやめていた。

ビデオレターを送ったりしたそうだが、覚えていない。
たぶん、ぶすっとした顔で、言わされたことを言っていただけなのだろう。
写真で見る母の姿は、どんどんむくんで腫れぼったくなっていった。
スリムですらっとした色白のお母さんは、もうこの世にはいなかった。


クリスマスに母が一旦家に来る頃には、私は母のことを日常から消して過ごすようになっていた。
もともとそんな人は私の人生にいませんでした、という顔をしていた。

12月の真ん中辺り。
家中に手すりが設置された。
母がつかまるためのものだ。
(邪魔だと思ったが、今では荷物を引っ掻けるのに便利な代物だ。)
可愛らしい花柄の杖と、ピンクのチョッキ。
これらは今も家にある。
でも、杖を使っているのは見たことがない。
杖を使って歩けるほど元気だったのなんて一瞬だったのだろう。
私の記憶ではずっと車椅子だ。

ある日家に帰ると母がいた。
やっぱり嬉しかった。
久しぶりの再会だったから気恥ずかしくて、顔こそまともに見られなかったが、ずっとそばを離れなかった。

あんまり考えないようにしていたけれど、怖くはあった。
全然帰ってこないし、写真は別人みたいだし。
でも、実際会ってみると、ちゃんと私のお母さんだった。
父や祖母に怒られても、私と妹は母のそばにいたがった(らしい)(私は覚えてない)。

もう治ったのかな、と思ったが、それは聞かなかった。
聞いたら、希望も祈りもやさしい嘘もみんな打ち砕いて、悪い空想がほんとうになってしまう気がした。


*後で聞いた話によると、母は最期の最期まで、きっと今でも、自分の病気を知らなかったそうだ。
なんで治らないんだろう、治療されないんだろう、と、漠然と言っていたそうだ。
でもたぶん、わかっていたと思う。
あんなに周りが悲しい顔をしていたら、気づかないわけがない。
娘がいうのもあれだけど、母は優しい人だった。
そして、いたずら好きで人を笑わせるのが好きだった。
気づいても言わなかったに違いない(知らんけどな)。


クリスマスにはもう、死ぬ一ヶ月前だった。
もちろんそのときは誰も知らなかったけれども。

クリスマスを境に、母は隔離された。
いや、私たち子供が、引き離されたと言った方がよい。
家のなかだったが、厳密に線引きされた。
子供は病気をたくさん持っている。
母は、少しの風邪でも即刻命を落とす危険があった。
医師に念を押され、それを押し退けれの外泊だった。

「空気清浄機が反応してる。子供は出ていけ」
これが父の決まり文句だった。
せっかく家にいるのに。
隣の部屋なのに。
ご飯も別、寝るのも別、会うのもダメ。
たぶん私は、寂しかった。
でも、寂しいと思うことも、寂しかろうと思われるのも、嫌だった。

だから、「こっちからお断り」の姿勢をとった。
「病気がうつる」「友達に嫌われる」「部屋が暑い(母が寒がるの実際に室温はめっちゃ高かった)」
特に「病気がうつる」はよく使った。
うつらないのなんて知っていた。
別にうつったって構わなかった。
でも、それが一番、無知な子供の妥当な理由と言う感じがして、たくさん言った。
母が私の名前を呼ぶのを、扉の外で何度も聞いた。

私は拒否し続けた。
空気清浄機は相変わらず反応していたからそれも言い訳にした。
泣いてぐずったこともあった。
そうすると母は「嫌なら仕方ないから」「無理して会わなくていいから」と悲しそうだった。
怒ってくれたらよかったが、そんな元気もなかったのだろう。
かわりに父が怒ったが、それにも母は悲しそうだった。

そんな顔も見たくなくて、私はいっそう、部屋に近づかなくなった。

年が明けると、容態が急変したために、母の実家(車ですぐんとこ)にうつった。
病院へ帰らなかったのは、もう治る見込みがなかったからだ。
すなわち、「死ぬなら実家の布団の上で」ということであった。

ある日、母が丸刈りにした。
癌ではないから、抜けたわけではない。
お風呂に入れないから、要らない、というのだ。
丸刈りは強烈だった。
でもたいていは、ピンク色の毛糸の帽子を被っていた。

私はたまに見に行ったが、怖くて近づけなかった。
「会いたくない」とはっきり言った。
なんて残酷な言葉だろうと思ったが、それしかなかった。
元気なときもあって、そういうときはお話しもした。
でもすぐに、追い出されるんだか逃げ出すんだかといったふうに、その場を去っていた。


そして、1月も終わりというある日、私はいつもより一時間早く目覚めた。
そして話し声に聞き耳をたてて、母の死んだのを知ったのだ。
入院して半年だった。


私は実は、葬儀にも通夜にも火葬にも、式そのものには出なかった。
かわいそうな子供と言う目を向けられるのは明らかだったし、具体的には、火葬した骨を箸で渡していくあの儀式が大嫌いだったのもある。
人の死に顔を見るのが嫌いで、特に火葬の瞬間は、幼い頃から駄目だった。



ただの思い出し記録なわけだが、小学生の間は思い出すこともしないようにしていたから、これは大きな進歩なのであーる。
そしてこれはグリーフケアをしるきっかけにもなったわけだから何がどうなるかわからんね。